精力善用・自他共栄について

2014年5月17日

“精力善用とは”

 「柔道の根本義は、精力の最善活用である。
 言い換えれば、善を目的として、精力を最有効に働かせることである。

 それでは、善は何か、と言うに、団体生活の存続発展を助くるものは善で、これを防ぐるものは悪である。(略)そしてこの団体生活または社会生活の存続発展は、相助相譲(そうじょそうじょう)〔互いに助け、互に譲る〕・自他共栄によって達成せられるのであるから、相助相譲・自他共栄もまた善である。

 これが、柔道の根本義である。

柔道の目的はすなわちここにあり
嘉納先生の柔道は単に柔道着を着て強くなることではなく
「団体生活の存続発展」を考えることで
それをねらうには相助相譲・自他共栄を考えなくてはならない。
と説かれています。それに従って自分をどう形にしていくかが柔道です。

 「何事をするにも、その目的を達するために精神の力と身体の力とを最も有効に働かす、ということである。(略)
心身の力を最も有効に使用するということは、柔道の攻撃防禦(こうげきぼうぎょ)のあらゆる場合を一貫した原理であり、また教えである、と言うて良い。
 この、心身の力を最も有効に使用するということは、簡単にいえば精力の最善活用と言うて良い。
 さらにこれを約言すれば、精力の善用ということもできる。
 この精力の最善活用ということは、柔道の修行上最も大切な教えであるが、また人生各般の目的を達するためにも必要な教えである」 
*嘉納治五郎、精力の最善活用、大勢第1巻第1号、1922 

 この根本義を、攻撃防禦に応用すると、形や乱取が成立する。これを、身体を良くすることに応用すれば体育となり、智を磨き徳を養うことに応用すると智徳の修養法となり、衣食住・社交・執務・経営など社会において人々がなす百般のこと〔色々なこと〕に応用する時は、社会生活の方法となるのである。(略)

 かく〔このように〕今日(こんにち)の柔道は、道場における単純なる武術の練習に止まらずして、むしろ人間が社会においてなす所の万般のこと〔その殆ど〕の指導原理であるというを適当と認めるのであって、道場において行う形や乱取の練習は、柔道の原理を武術と体育に応用したのに過ぎぬのである。(略)自分は、昔の柔術の形や乱取の修行から入って、その奥義(おうぎ)を体得するに至った。それゆえに、人に教えるにも、同様の道行をたどったのである。また形も乱取も、武術としまた体育として、多くの人に学ばせて価値があると認めたからである。それら自身の目的のためのみならず、ぜひそれによって柔道の根本義を体得し、それを万般の実生活に応用して、すべての人をして合理的生活を営(い
とな)ましむるようにしたいからである。
 それが自分の創始した柔道の原則的の修行の仕方である。
 しかし世間には、それが柔道であるということに気づかず、実際は柔道の原理に基づいて社会生活を解釈している人がいくらもある〔沢山いる〕。
自分の説いている柔道が、一層広く世間の人に理解せらるるようになれば、これまで柔道と考えずに行っておったことが柔道になり、一般の人もますます広く柔道を指導原理として社会生活を営むようになるものと、自分は信じている。
 諸子(しょし)〔諸君ら〕は率先して社会にその気運を作るように努力せられよ」
*嘉納治五郎、柔術と柔道の区別を明確に認識せよ、柔道第7巻第2号、1936